18. 不幸せな人とそうでない人
まさか数ヶ月書かない日が来るとは、、、まあ初めから勘付いていましたが!笑
新しく始めた事業が僕にとっては量が多くてただただ疲れてた、それだけのことでサボってました。束の間の休日、一気に書きます。。
多分また書くのサボると思います。
一方で学びも多い時間でした。
事業を通して個人のお客様が増え、人間観察する機会が増えました。
と言っても大層なものでなく、僕ら業者側と話をする際の対応であったり、顔つきであったり、そんなものを観察しては、「この人は多分、ああだこうだ」と、密かに考えているだけです。
仕事中は無の境地なので、一切その感情は見せずに、ただ淡々と笑顔を振りまいて、せめて何もトラブルのないよう帰宅するのが第一目標なのですが。
そんな生活を通して僕が習慣付いてしまっているのが、いわゆる高台の大きな家に住み、駐車場に高級車を並べて、見るからにお金持ちそうな人と、そうでない人との生活スタイルと、心の幸福についての憶測。
様々な家庭に土足で踏み入り、お客さんと会話する中で、前者があくまで幸せの定義に当てはまるわけではないと言うことが見て取れてしまうと言うわけです。
さて、世間一般の考え方では、そりゃお金を多く持ちながら、高級なもので身を武装して、周囲に大きな態度を取れる、そんなステータスをお持ちの方が大いに幸せだと考えるそうです。
僕らみたいな業者相手となれば、「お金を払っているんだから」と、それはもうすごい傲慢な態度で攻めかかってくるのです。
仕事中の僕の心はいつでも無の境地にいるので、まるで執事にでもなったかのように淡々と笑顔で対応するわけですが、あれをプライベートでされると、多分顔面に唾吐いてボコボコです。
なぜならこっちも人間なのだから。
一方でそんなステータス的な物質を手にしていなさそうな家庭でも、「ありがとう」が口癖の人がいます。そういう人は夫婦間でも、子供に対してもいつもニコニコです。
思いあい、笑い合い、協力しあって生活している様子が伺えます。
何が言いたいのかというと、ほとんどの人が「幸せの定義」みたいなものを、勘違いしているか、見失っている。
お金と車と大きな自宅は、幸せのそれには当てはまらないのです。
むしろ、定義を無視して生きてきたであろう、もしくは本当の幸せに触れた回数が少ないのではないかって、そんなふうに思ってやみません。
どうしてこんなことが言えるかというと、以前どこかの記事にも書いたと思いますが、幸せな人と不幸せな人が行う行動パターンが面白いぐらい見て取れるからです。
簡単にだけ説明すると、前者は抱えきれない幸せを、他者に分けようとするのです。(するかのように行動しています。)彼らの口癖は、「ありがとう。」そして、自然と笑顔に溢れ、
僕らもそれを見ているうちに、多くのお金は払ってもらえないかもしれないけれど、帰り道はついこちらの気分までとてもハッピーになるのです。(幸せのお裾分けと呼んでます。)
後者は幸せを奪おうとします。その方法はいたって簡単で、目の前にいる他者を打ち負かせばいいのです。つまり、幸せを奪うというよりも、他者を不幸せな感情にしておいて、自分が優っていると感じたい。だから、罵声を浴びせたり、いちゃもんをつけたり、要は文句ばっかりの人ですね。
もちろん大きな家で高級車を並べる一定の民族が、全員そうとは限りません。
本当に素晴らしい人格の人もいます。
しかし、そうでない人もいる。その割合は高いかもしれません。偏見なのかもしれませんが、いわゆる「高級住宅地」と呼ばれ、ここに住むのが一定のステータス、だとアホな勘違いしてそうな人たちに、不幸せ人間は多く見られます。
では、幸せな人とそうでない人は、何が違うからそうなってしまうのか。
幸せの定義とは何ぞやとなりますが、
先ほども書いたようなこと、これが真髄だと感じてなりません。
それは、「人間関係」です。
家族、友人、恋人、職場、あらゆる人間関係が良好なほど、幸せそうです。
大きな家に住み高級車に乗って、巨大な庭をお持ちの男爵も、奥様にとても偉そうな言い方で、僕ら業者はまるでゴミ以下の扱い、そんな人が幸せそうとはとても見ることができません。もしかしたら本人はそれで幸せな気分なのかもしれませんが、
ここが重要なポイントで、真の幸せを知らないのだから、そうなって致し方ないということです。
ただ人を従えているのではなく、心が自然と通い合い、互いに思いやることが率先してできて、同じ空気を同じ空気感で過ごし、他者と共通した感情で生きる。もし軽自動車の中でこれが作れたら、ギスギスしたベントレーよりも、乗りたいのはどっちか?ということです。
何度も言いますが、人間観察が癖付くレベルになってしまうと、人の幸不幸の様子が面白いぐらいわかります。
ふとした言動、行動、家の中、そこに漂う空気感ですら、それらを察知することができます。
不幸な人間になにかをされると、報復したくなるのが人間です。その報復が怖いから、さらに押しつぶそうとし合います。
人間関係が幸せの定義の第一段階にあるにもかかわらず、一定人数の人々は、このように定義から外れていくのです。
僕は教師時代に比べ、お金は不安定になったし、そのくせ仕事は忙しくなって、体力も使って毎日夏バテですが、それでも、今の方が幸せだと断言することができます。
仕事内容は今より教師時代の方が、夢だったし楽しかったけれど。
今は毎日のように仲間に囲まれて、大変な作業を協力しあって、完成したら喜び合って。そんな環境にいることが、まず幸せに感じます。
職種やお金の量より先に、良好な人間関係が、人の幸福には必要なのです。
元々群集動物の人間です。他者とギスギスしあって、自らのパートナーや隣人、家族にすら文句しか言わず、協調性がなく、自分のことばかり考えている人は、回り回って幸せを逃してます。根本的に本能から逸れてます。
これは言い方を変えると、自分の人生に真剣に生きているとは言えないと僕は思います。
人生を充分に満喫したいなら、他者との関係は必要不可欠です。人の心は寂しさを嫌います。敵ばかり作っては生きていけないのです。
恋人関係、友情関係でも、わがままばかりはまかり通りません。いつか、人は離れてしまうのです。
そんなことに気づいた時点で、僕の生き方は様変わりしました。
教師という職は好きだったけれど、ギスギスした人間関係の中で生きるのは不幸に満ち溢れていました。
そこから、人間関係の大切さに気づき、思いやりを持った人と接して、そうでない人とは交わらない、そんな生き方を選択しました。要は、自分が気持ちよくなれる環境にしか身を置かない。自分がそうなることで初めて、自分も他者へ思いやれるのです。そうなれるもの同士の中で、今はとても幸福感を得ています。
言い方を変えると、これはとてもわがままな生き方かもしれません。最後の「自分のことばかり」の人間より僕の方が多分わがままに生きています。
しかし、そんな心持ちのおかげで、僕の中では教師時代と比べて幸せの定義が徐々にクリアされつつあります。
人間関係(群居欲)の次は、食欲、睡眠欲などの生存欲と、性欲と愛。そこから、社会貢献欲、自己実現欲です。
今はまだ3つ目までを満たすのが精一杯という感じなのですが、自分自身が幸せになるために、徐々に後者も揃えたいとこですね。まずは4つ目、5つ目を完璧な形でコンプリートしたいところです。笑
これからもぎゃんばろー
17. 優しい人
いつぶりの更新になるんだろうか。
特に頑張らずやって参ります。
1.優しい人
昨日、不思議な体験をした。
多分、勝手な思い込みだろう。
笑われるに違いない。だけれど、
僕がそう思い込んだまま、馬鹿なまま生きることができるのであれば、
もうそれは勝手な思い込みではなく、一つの体験として僕の中に残る。
そこでは僕の所属する団体が関わる、地域の祭りが開かれた。
会場には大勢が集まり、出店やイベントで盛り上がっていた。
喫煙所に足を運ぶと、正面にある人の看板が立っている。
たまたま同じ大学の先輩で、僕の父親は親友でもあった。
そんな奇遇から、僕は昔から、平尾さんが特別に思えた。
僕の大好きなラグビーの世界で、日本の頂点に君臨した人だ。
普通、遠すぎてわけの分からない異次元の人のように思える。
憧れたって、尊敬したって、僕のような一般人には、考えるだけ時間の無駄と言ったぐらいの存在だ。
例えば1人のどっかのガキがマイケルジャクソンのダンスに憧れて、本気で真似すりゃ自分もできるとスター気取りの・・・そんな状態だ。
身体能力と生い立ちと、そこから育まれた思考回路自体、全く違うから、なれるわけがない。
っていうか、彼らは特別な存在だ。多分人生を数回はこなしてる。わかりきったことではないか。例えば一回目の人生で、あんな結果を出せるはずがない。
何かの生まれ変わりか、もしくは、人の形をした異星人なのだ。
人間一回目のガキが、どうもがいたってそうなれやしないのだ。
そんなことはわかりきっている。でも、それでも、僕はおこがましい。
近づけるんじゃないかとか思う。そんな惨めな子ども時代だった。
彼とはもう写真でしか会えない。平尾さんは2年前亡くなった。
丁度同じ頃、僕は悩んだ。
教師を辞めて、路頭に迷った。
自分ではもう考えがつかない。だから、本に頼ろうと思った。
もちろん、その中に平尾さんもいた。
数々の著書を彼は残してる。
徹底的に、考えを学ぶ。
人生の底辺をうろつきながらも、それでもまだ飛躍を望んだ。
だから、スターの考えを学ぶ。
なれるとでも思っているのか?
いや、なれない。それでも、学ぶ。
大人になったときに見る言葉で、平尾さんの思考を、思考する。
数ヶ月たって、昨日の話だ。
あれから僕はビジネスを始めた。
正直言って、よくわからない。
このままの道で生きていいのか。
本当は自分は何を望むのか。
結婚もしていない、財産も消えた。
ビジネスだって、どうなるかわからない。
数ヶ月前にゼロだった自分に、ひたすら1を足してきただけだ。
ビジネスセミナーでは笑われる始末だ。
「お前これで生きれると思うの?」「本当にそんな人生でいいの?」
年齢も経歴も輝かしい人たちの、ありがたいご指摘にいちいち悩む。
多分、僕に期待しているのだろう。だからこそ言ってくる。自分も、それは事実だと思う。
結構、僕は優等生街道だ。父親もすごい。いわばエリートだ。周囲の期待は嫌でも上がる。
ありがたい。
でも、何もわからないのだ。
「優等生街道」なだけで、中身は全然優等生じゃない。
色々言われても、正直分からない。未来予知ができるほどの英才教育は受けてこなかった。
何が正解で、どう生きりゃいいのか。
わからないから、えげつなく悩む。
しかも僕は事業主だから、給与をもらう立場ではない。立ち止まったら、ご飯が食べれない。これでいいのかと悩みながらでも、進むしか時間の使い道はない。
その日だって給料も出ないのに、呑気にそんな祭りに出ている。
「あぁ〜、これでいいのだろうか。」
そんなことを考えるために、喫煙所へと歩いたわけだ。
そこに、平尾さんがいたわけである。
夕方、もう一度喫煙所に行く。
「平尾さんいるかな?」と看板に目をやると、
平尾さんは、撤去されかかっていた。
祭りの終盤、片付けの時間だ。
「平尾さん、持ってかれちゃったよ。」
と、その時、
不思議な体験をしたんだ。
平尾さんの優しい笑顔が、遠のきながら、こっちを見ている。
角度が変わっても、僕を見ていた。
多分、たまたま。写真のせいだろう。
でも、明らかに、その顔が優しい。
今まで見てきた、誰の顔よりも、
そのときの平尾さんが、一番優しい。
どこか、「お〜、頑張っとるな。」と、
僕を見て微笑んでいるような気さえした。
「頑張れよ〜」とか、そんなんではなく、
「お前、それで正しいよ」と、
励まし、褒めてくれているような。
そんな感覚に、勝手に陥った。
生き方に迷う年頃なのだろう。
諸先輩方の意見を聞いては、今の自分と照らし合わせる。
その度に、やるせなく落ち込んでしまう。
自分はまだまだ、理想には遠いなと。
どんな道を歩むべきだろう。
正解や近道ばかりを追いかける。
今、歩いてる道は正しいか?
そんなこと、どこかに着くまでわからないのに。
あの微笑みを勇気に変えて、
とりあえずこのまま歩こうと思う。
2.名言コーナー
「心の声に従っていれば、まず間違い無いと思う。」
以前も紹介してましたかね。
平尾さんの言葉です。
心の声に従う作業が、結構難しいっていうか、自分でもよくわからないんだけど。
そういえば留学を勧められたなあ。
今時、数百万借金すれば、割と簡単にいけるみたい。
今は行きたくないけれど、多分将来には役立つんだろうな。そんな心境で過ごしているけど、結局、「今」行きたくないから、多分近いうちには、行かない。
3.適当コーナー
最近、新しいビジネスを進めて、力作業が増えてきました。このまま夏までに痩せればいいなあ。
16.運がいい人は波に乗れる人
今日は運についての考えを述べます。
その前に前回イチロー選手引退について触れ、
「ここじゃ書き切れない!」次回も書くぞ!と意気込んでました。
しかし、、、何を書きたかったのか!全く思い出せないので、もういいです。笑
1.「宿題ゼロ・遊びこそ学び」世界が注目!フィンランド教育!
僕は教師を辞めてから、必死のパッチで生きていくためにとなんか色々やっていますが、そもそも一番興味のあるのは学校教育についての話しです。以前、Facebookをみていると、少し古い記事ですが、フィンランドの教育事情についての話しが流れてきました。
なぜこの話しに注目したかというと、実はフィンランドは学力が世界1位だったんですね。
「子どもはもっと遊ばなければならない。」
「遊びからこそ真の探究心が芽生える。」
「宿題はゼロ。放課後遊ぶ時間が無くなる。」
「受験教育は人生に意味なし。小学校は最高4時間(休憩時間含む)」
共感できることばかりの内容で、素晴らしいな〜と感心してました。
自慢じゃないですが(すいません完全に自慢なんですが)、僕はこのフィンランドにおける教育方針を勉強する以前から、「こんな感じがいいんだろうな〜」とたまたま頭で考えていました!!
もっとも、こんな感じの教育方針で日本で教師をしていた私は、勤め先だった日本の学校からは相当な嫌われ者だったのではないかと思いますが・・・。笑
2.運がいい人は波に乗れる人
人生は運気が高まるときと、そうでないときがあるということは、ある程度生きてりゃ体験するものです。しかし「運」というものは、目に見える物質的なものではありません。何ともよく分からない概念、そんなものにほとんどの人は、割と真剣に左右されています。
まずはそもそも「運」なんてものはあるのか無いのかを考えてみますと、まあそれはどう考えましても、雨風のように降っても来なければ、入学式や卒業式みたいに、「はい、ここから運がいい時間です」的に待っていたら来るものでもありません。
それなのに今まで長年にわたって、運がいいだの悪いだの、人々の間では言われ続けてます。訳の分からないグッズが売られ出し、神様神様〜お助けを〜と、目には見えないどこかの何に何を頼んでるのかもわからない奇行を、人々はずーっと繰り返します。
もう、こうなってしまった人類に、「運などないのだ!ひたすら歩めぇぇぇ!」など、どっかの国の軍隊じゃあるまいし、今更言っても効くわけありません。
しかも結論から言ってしまうと、「運」は、実際にあるんだと思います。
まずもし「運」がなかったら、神も仏もリストラですから。やつらは我々に天罰と運を与えるために存在してるのです。彼彼女らの大切な仕事を、勝手に奪うことはできません。
では運とは何かと申し上げますと、それは心の持ちようだそうです。
運を高めたいと思う方がいれば、サーフィンのように、波に乗ることです。
(頭がおかしいわけではありませんwww)
実際に心というボードを操り、波に乗ることで、運気は増してきます。
事実、この世のあらゆる物質は、波を放って存在しています。
その波の周波数により、音となったり光になりますね。
人間も同様に波動を放ちます。周波が光や音と違うので、目に見えたり聞こえたりしないだけ。実は、人間は22段階の波動を感情で変化させています。
怒りの感情は怒りの波動を、楽観的な感情の時は、楽観的な波動を放つのです。(怒りの波動は17番目、楽観的な波動は4番目。)
波長が合う者同士というのは、自分達が放つ波動の波が同じ周波だということですね。
運とは心の持ちようと言いました。
波動も心の持ちようなのです。つまり、心=感情の持ちようで、おのずと自ら発する波も変えることができるのです。
ではここからが本題です。
波長が似たもの同士は引き合い、それと似た波に出会うことになります。
だから、簡単なことなのです。
ええ感じの周波を放てば、ええ感じのものに出会うんやぁ!
自分が理想とする状態、その感情をキープさえすれば。。
(↑感情コントロールの方法はまたいつか書こうと思います。)
先ほど、人の感情周波には22の段階があると言いました。
その頂点が、「愛と感謝」です。
神や仏はなぜいるのでしょう?
我々は彼らに何をしますか?
胸の前で手を合わせますね。その時、どんな感情でいますか?
お祈りは願うだけではだめです。
誰だって、くれくれちゃんには何もくれません。
こちらが感謝し、与えるからこそ、何かを返してくれると思うのです。
それは神様仏様も同じ。先祖や日々の生活に感謝し、お守り頂いていることに感謝し、我々はお供え物をします。パンや葡萄酒、お米、さい銭。
知らず知らずのうちに我々は、先ず感謝を述べているのです。それを理解して祈るかどうかで、効果は全く変わってくるでしょう。
求める感情ばかりで祈っても、効果は最大限ではありません。
(「希望」の感情は6番目、「期待」は4番目の波動です。)
先ほども申し上げました通り、愛と感謝こそ究極の波動です。これらは感情周波の中で頂点に立つ波動を放ちます。つまり、「良い波動を自ら放たせ、他の良い波動と引き合わせよう。」と、こんな具合に仕向けてくれてます。
神様仏様は我々に、我々の持つ「良い波」を、自然と引き出してくださっているのです。
現に、お墓や仏壇を見ると、そこには先祖や仏様がおられて、花が添えられていると思います。 しかし、よくよく考えてみると、花はその方々とは逆側、拝む我々の方を向いています。先祖や仏様から見たら、花の裏側しか見えないはずです。
もし、彼らを敬うのなら、花は向こう向きにしなければなりません。
これは、つまり拝む側、我々の心にこそ極楽があるんだと、そういう意味が込められているそうです。「拝んでいるあなたの心は、今とっても素敵だよ。」と、
愛と感謝に染まりきりながら、最高レベルの波動を放った、我々の心を祝しているようです。
だから、「運」を引き出せるかどうかは、自らの心で左右されるのです。自らの感情周波を操り、気持ちの良い波動を放ち、その波に乗ることが肝心です。
そんな心のコントロールの後押しをしてくれている存在、それが、神様仏様であり、開運なんちゃら、というわけなのでしょう。
人はイラッとしてしまうときも、悲しんでしまうときもありますが、その状態ではとてもではないけれど、良い波動は放たれてはいません。(怒りは17、悲しみは22番目の波動です。)
できるだけ自身を良い波に乗せ、どこかの良い波と巡り合わせるのが、「運が良くなる」秘訣なんだそうです。
3.名言こ〜な〜
「人間は楽しんでいるとき、最高の力を発揮する」
楽しむことでポジティブになれ、幸福感と情熱を持ちながら、エネルギッシュに行動できる。
ポジティブは4番、幸福は3番、情熱は2番、エネルギッシュな活力は、愛と感謝と同じく1番高い感情の波動です。
それらの感情をすべて引き出す、「楽しむ」という行為は本当に大事です。
楽しむだけでこれだけの良い感情の波動があふれ出るわけです。良い波動は良い波動と引き合う。そりゃ、力も発揮されますね!たのしんでいこ〜〜〜
4.適当雑談
春になりました。
桜を見ると、「過去の自分の春」を数年分思い返してしまいます。
あの年の春はこうだった、あの年はあんなことをしていたなあ。
日本は四季がわかりやすいので、それぞれの季節で特別な思い出がありますが、僕にはなぜか春の桜の思い出がやたら多い気がします。(キモ)
15. 「ある」世界の人
前回「ない」世界の人を書いたので、“次は「ある」世界の人を書いたらいいからすぐ書けるなー”と思ってたら約2週間経った。2、3週間に更新1回ってどんなブログやねんと。
1.ニュースを読むコーナー
どんどん名前が変化している各項目のコーナーですが、その辺は適当に行きましょー。名前なんかどうでもいいよー。笑
今回注目したニュースは・・・
やっぱりイチロー選手の引退ですよねー。
会見、全部聞きました。
昔からイチロー選手を見ると、一言一言をこだわって話していて、行動、言葉、全てに意味を持って生活しているんだなあ、と読み取れますよね。会見中も度々「僕、変なこと言ってます?」って記者に聞き返していたあたり、普通の人とは違う思考回路であることが推測されます。違いすぎて、誤解される部分もあるからこそ、「間違ってます?」って聞き返すんだろうかな。笑 それでも、流されず、信念を持って今までプレーされてきたメンタル、本当にリスペクトしまくりです。
スポーツは違えど人として憧れがあって、到底及ばないけれど、改めて「これぐらいの意識を持って生きていかなきゃなー」と思わされました。また、僕のように人を感化し、これだけの人に憧れられ、影響を与える人はすごい。。スポーツの力って偉大ですよね。真のスポーツ選手の姿を体現されたんだと思います。僕は高校入試の論文でイチロー選手のことを書くほどイチロー選手が大好きなので、彼について話し出すと止まらないのでこの辺りにします!笑
次回またイチロー選手に触れていきたいと思います!
2.「ある」世界の人
前回、人の世界観というのは、「ある」世界と「ない」世界に分けられている。(かもしれない)
と紹介しました。
要は自分への信頼が、ある状態で生きているのか、そうでないのか、と言うことです。
「ない」状態で生きている人は、どうにかして自分への信頼を、他者から勝ち取ろうとする。その結果、他人からの評価を気にして生きるということに繋がり、自らの心の声は聞けないまま生きる。
「こんなことやっていいのかな。」
「こんなことしたらどう思われるだろう。」
こんな具合に自分を縛って、やりたいことをできないままでいる。言いたいことも我慢して生きる。また、
「これをやったら評価されるだろう。」
「これはダサいから辞めておこう。」
と、本来の自分の姿を隠し、他人の心の中で生きている。強がったり、格好つけたりなんかして、自分を大きくみせることもある。
また、他人に対しても同様で、「他者は立派な自分しか評価してくれない」と思い込み、他者が持つ「人への無償の愛」も、自ら失わせようとしている。「ない」世界にいる人は、自分と他人を信頼していない。と、そんなことを書いたと思います。
僕も去年までそうでした。育ちの過程でそうなってしまった。これは言い訳なのかもしれない。しかし、結果的には自分への自信を保つことができないでいた。
教師を辞めて病みに病んだ時、今までそうやって他者から勝ち取っていた(と思い込んでいた)、自分への信頼が崩壊し、もうどうでもよくなった。それが不幸中の幸いとなり、他者の目が気にならなくなった。
落ちるとこまで落ちてしまったから、今更自分を利口に見せようとも、良い部分が1つもないから(笑)、「だったらもうどうでもいいわ」と、そう思えるようになったのです。
僕は、「ある」世界の住宅に勝手に住み込む形となった。
しかし、現実では0の自分に、ただただ1を足す作業が続く。その過程で大切なのは、ダサくて弱い今の自分を、どこまで好きでいられるか。こんな自分でもいいんだと、他者の目線をそっちのけにして、目の前のことに没頭し、ただただがむしゃらに生きていけるか。
自分への信頼が「ない」世界にいた、今までの自分には至難の技だった。
「僕は弱い。」そして、「助けてほしい。」
こんなこと、真剣な場では誰かに言ったことがなかった。
「ない」世界にいた僕は、自分に信頼が「ない」状態だったから、なんとか信頼を勝ち得ようとして、他者から評価されようとしていた。つまり、その結果自分を強がってみせていたのだ。それが癖となり、当たり前だった。なんと息苦しい青年だったろう。笑
僕の一番の弱点は、「人を頼ることができない」だった。
しかし、去年だ。
強く生きてきたつもりの自分が、強がるどころか何もできなくなり、もう自分1人では、立ち直ることができなくなった時、僕は初めて「どうか助けて」と、情けなくも他者を頼った。
他者を信じ、自分を認めた。弱く苦しむ自分の姿を、強がりの自分が容認したのだ。つまり「ある」世界に飛び込んだわけである。
どう思われようと、生きるのが先だ。自分を生かすのに精一杯だった。迷惑をかけ続け、心配をかけ続け、「こんな自分はどうなるんだろう。」そんなことを思っていた時、なんと他者は優しかったのだ。
「じゃあ一緒に頑張ってみようか。」
と、手を差し伸べてくれる人もいた。ケツメイシの「仲間」じゃないけれど、「楽しい時だけが仲間じゃない」と、ラグビー以外では初めての体験だった。
そして今は、過去を経験し、痛みを知ってしまったからこそ、何をすれば痛むのかがわかる。
自分もそうだし、他人へもそうだ。
痛がっている人の気持ちも、これから痛み出しそうな状態も、もしかすれば何か一言かけてやることができるかもしれない。
順風満帆だった自分には、決して見えなかった景色が見える。
自分の弱さを認め出した後、他者の弱さも認めることができ、自分の中のダイバーシティが実に大きくに広まった。「ない」世界では測ることのできない、広大な世界が、「ある」世界だった。
3.名言特集〜
痛々しいほど名前が変わる、今日の名言コーナーです。笑
「人ひとりが幸せになるか、不幸になるかは、そばにいる人のちょっとした、優しい言葉だったりすると思う。」(尾崎豊)
出ましたー。僕の大好きな豊尾崎です!
この言葉、体験してなお沁みました。
4.適当コーーーナーー
愛車が点検で引き取られました泣
お知り合いの車屋さんに特割でやってもらえる分、少し期間が長いということで。
しばらく代車生活ですーー。
普段乗らない形の車で、小回りは効いていいこともありますが、やっぱり好きな車に乗ってたい!早く戻ってきてよねーん。
14.「ない」世界の人
3日に一度の更新を目指し、意気揚々と始めたこのブログです。
ほぼ3週間に一度のペースです。笑
何か動き出すと次々と物事が進むもの。このブログをやり始めた頃から、一週間ずつ忙しくなってます。。自分としては、ごっつええ感じ。
もうちょい更新頻度高めます!(泣)
1.時事ニュース
この記事で注目したいのは、共同経営者がいるメリットとしてあげられている要素が、「仕事の能力」ではなくて、「精神的支柱」という部分にあること。人の営みはいつも、精神の関わり合いが根本にある。たまたまだけど僕も現在全く種類の異なる事業をいくつか経営・運営しているが、ほとんどが共同経営を選んだ。スピード感は確かに落ちるが、同じ志を持った仲間が誰かいることによって、1人ではやっていけなかったであろう困難も乗り切ることができた。共同経営の最大の魅力だ。
また、これもたまたまだけれど、昔から思っていたことがある。
「何をするか」ではなくて、「誰とするか」が大切だということ。
昨今の世の中に僕が感じるのは、他者との関わりに金銭面や時間に対しての損得勘定する人がすごく多いということ。もっと心の損得勘定もする人が増えればいいのになと思う。
2.「ない」世界の人
人の生き方や性格について、昔からごちゃごちゃ考えるのが好き。「この人は何を思っているんだろう。」昔から考える癖がある。
昔おかしな人たちを見た。おそらくその辺りからだろう。
彼ら彼女らは教師をやっていて、どうも納得のいかないことでガミガミ怒る変な奴らだった。よくわからない基準で怒鳴られた。子供の頃から何が正解で、何が悪いと思われるのか、そんなことに悩むようになった。
後に彼らとは別の考え、リベラル的な考えを持つ1人の恩師に出会わなければ、僕は教師にはならなかっただろう。恩師は僕に「自由にしたらいい」と優しく解き放ってくれた。その時、どこか開放的になり、確かに力を発揮することができた。自由な世界は居心地が良かった。将来、生き方に迷う誰かに、同じように声をかけたいと思った。
しかし恩師の元を離れた世界では、また前述の考えを持つ人たちに揉まれてしまった。あまりにもそんな人が多いので、それが当たり前なのかと思った。もっと自分が強かったらと思う。流されないですんだというのに・・・。
「常識」だとか、「一般的」という言葉に縛り付けられた気がした。中学卒業後の僕は、自由に生きることはなくなった。
親の影響も少なからずあった。
有名人だった父親の影響で、どうしても周囲の目が気になった。「いい子」でいなければならないと思った。高校、大学も父と同じで、期待を裏切ってはいけないと思った。気づけば「他人の心の中」で生きていた。
そうやって自分を縛り付けてしまった。だから、昔から俗に言う「自由人」、金髪にしたりピアスをしたり、夜中まで遊んだりしてそうな人に、憧れとともに疑問を抱いた。
僕は親と肩組んだことも、対等に喋ったこともなければ、学生時代は彼女を実家に連れていくこともなかった。そんなことをしたら周囲がどう思うだろうと、自分以外の人の心をまず優先する生き方をしていた。そして、「自由な人たちはどうしてできるんだろう。なぜ自分はできないんだろう。」そんなことを約20年、ずっとずっと考えていた。
なんて息苦しい奴だったんだろう。
それが当たり前だったから、大人になってそんなことに気づいた。
自分への向上心はある。豊かな人生を送りたいと思う。だからこそどういった生き方が正しいか、毎日のように悩みながら生きた。納得できないまま従うことはしたくなかった。一方で、自分の心の向くままに生きるのか、周囲を気にしていい子で生きるのか。それの正誤だけは見つからなかった。
一冊の本にヒントがあった。
「ある」世界と「ない」世界。人が生きる世界は二種類に分けられる。
どうやら僕は「ない」側の人だった。
なにがあって、なにがないのか。
一言で言えば、「信用」だという。
「自分や他人に対する信用」
これがあるのか、ないのかというわけだ。つまり僕にはなかったことになる。
昔から期待をかけられて育った。他者からの評価を気にし始めた。
「まだまだできる。勝たなければならないよ。」そう言われて続けて育って、「頑張らなければ認めてもらえない。」そう思うようになっていた。気づけば自分への信頼基準を、他人に依存していたということである。
自分の価値は他人が決める。だから頑張らなければならない。大げさに言えば、「誰かから褒めてもらわなければ、自分など価値のない人間だ。」そうやって自分への信頼を捨てた。
言い方を変えれば、他者のことも信頼していないことになる。
「何か良い行動をしなければ、人は自分を好いてはくれない。」
そうやって他者の心に対する信頼も勝手に捨てていた。
思い返せば、その僕の考えは間違いであることがわかる。証拠に、めちゃくちゃ失礼な後輩だって、ミスばっかする仕事仲間だって、不良やちっとも面白くない不細工な同級生だって、僕はみんなのことが好きでいているし、みんなも僕以外の誰かから、少なからず愛されている。つまり、そこまで完璧主義者でなくても、この世界では誰かが友達でいてくれるはずなのだ。そんなことに、気づかないでいた。
そんな自分のコンプレックスを、他人に味わって欲しくはない。自由に、心の声に従って、いきいきと生きる人が増えて欲しい。
実は教師をやっていたときは、そんな気持ちで取り組んでいた。
自分が縛られていた世の中に対してのある種の反逆でもあったかもしれない。
それでも根本的に「ない」世界の僕は、自分を変えることはできないままでいた。
生徒には、「人生は自由だ、君のままでいい、良さも悪さも君の個性だ!」なんて、粋がってでっかい言葉をかけていたものの、いざ自分自身がそれをしようとすると、中々勇気がいるものだった。「ある」世界に生きると言うことは、即ち自分を信頼し、他者からの目を一切気にせず、自分本位で生きると言うこと。
いざ他者に「いい子」だと思われてきた、「ない」世界で積み上げた道を、一歩踏み外すのが怖くなる。(単なる幻想に過ぎないんだけど。)
「ない」世界から「ある」世界へは自分だけでは行けなかったと思う。
そんなこんなで事件は起きた。
一年前のことだった。
それは「不幸中の幸い」的な現象で突如訪れた。
大好きだった教師の仕事を辞めなければならなくなったことだ。(詳細は第3回を参照)3. 僕が教師を辞めた理由 - 放課後の純喫茶
どうしても周囲に迷惑をかけて、両親にも死ぬほど迷惑をかけて、落ちるところまで落ち込んで、もう自分も死のうと思った。
すなわち、今まで「ない」世界に生きて、周囲の期待に反しない人生をガチガチに歩んできた自分にとって、正反対の現実が目の前に突然現れたわけである。
そうして多くの信頼と期待、これまで積み重ねてきた実績を失った。要は必然的に「ない」世界から解き放たれることになったのである。
死ぬことを一旦辞めたとき、これからの人生を深く考えた。「自分はどう生きるべきなのか。」
そこで、「今更どう思われてもいいわ。」と、少々諦めに似た考えも相まって、「ある」世界で生きてみようかと。
すると周囲の目が気にならなくなった。中学時代の記憶が蘇る。徐々に心が解きほぐされていく。「大好きな仕事を失ったんだから、もう好きなように生きよう。」
そう思えるようになったら、僕はとてもわがままになった。一方で心に従えるようになった。
人のことを考えないようになったことに付随して、ストレスも溜まりにくくなってきた。そういう仕組みで生きているんだけど。(13.アホな人 - 放課後の純喫茶)を参照
元々向上心はあったから、体が動けばどこへでも行ける。
昔から「自分には何かができる」と思っている。 まさに中二病なんだが。
でも僕は悪くない考えだと思う。そもそもそう思えなければ、行動できないし結果も出ないし、何よりも自分を信頼していない。
それでも、「ない」世界で生きていたうちは、結果を出すのは不可能だったと思う。
まず「他人の心の中」で生きている限り、自分自身の本性の力は発揮できないわけだから、結果も満足いくものにはならない。
これからは「ある」世界の人として、楽しんでチャレンジを続けたいと思う。
3.名言BOX!!!
「名言コーナー」と呼んだりBOXといったり、まあそこは適当なもんなのですが。。笑
今日の名言はこの人です!
「自分が将来どんな人になりたいかが重要だ。今までどんな人であったかは関係ない。過去は忘れよう。意識的にどんな人になりたいか決断しよう。そして、その人になるために行動しよう。」
(自己啓発作家:アンソニー・ロビンズ『一瞬で自分の夢を実現する法』)
自分が中学?高校?ぐらいの時に読んでいた本です。心理学の創設者と共にコーチという職業を築いた有名な方です。彼の言葉通り生きようとすれば、「ある」世界に生きざるを得ない、ということになるのでしょうか??
4.適当コーナー
書きすぎたのでもう書きません。。
13.アホな人
新しくお店をオープンしてから、約2週間が経ちました。どんな事業でもやり始めというのは、うまくいかないことだらけ。今回も常にバタバタでした!
準備中に会議、終わってから会議、別の仕事をしているときにも、ラインや電話で打ち合わせの嵐。オープン日だけノリで決めちゃって、「まあ何とかなるっしょ」的な感じでここまで来たもんだから、やっぱり何ともなりませんでした。笑
しかしながら嬉しいことに、開店直後には多くのお客様!お店を閉めるのも深夜になります。それから片付けて会議して、帰る。寝不足がそろそろやばいです。とはいえ、不思議とネガティブではない。1日が24時間だからわざわざ寝に帰るといった感じで、ストレスなんかは特にありません。昨年の今頃は一つの仕事でストレスを溜め込んで病気にもなったけど、今はすごく楽しんで生きている。明らかに労働時間で言えば現在の方が多いはずなのに、ストレスは全く感じない。笑
これからも楽しんでいきたいと思います!
①時事ニュース
マジでアホとしか言い様がない。
警察って優秀な人もいるんだろうけど、はっきり言ってアホすぎる人も中には多い印象ですよね。明らかに対応がおかしかったり。。以前車を納車するために車庫証明を取りに行っただけで、めちゃくちゃ鬱陶しそうな対応を取られて唖然としてしまいました。一言目からまず敬語でしゃべれない。ってそんなことはどうでもいいんですが、なんと全部命令口調!笑
「そこで座って待っとけ」とか「窓口で金払ってまた来い」とかね。旭警察署の女性警官でしたが、ちょっとあんまりちゃいます!?笑 旦那とセックスレスなんかなあ。。
②アホな人
たまたまですが本日はアホ三昧でいかしてもらいます。
冒頭でも紹介したように、僕は今は楽しんで生きてます。1年前とはえらい違いです!仕事の量は圧倒的に増えているはずなのに。
どうしてそれでもストレスフリーで生きていられるのかというと、昨年決めたとある誓いを、僕が破らずに生きているからです。これはあくまで僕の考えなので、万人に通用するかはわかりません。だけど、ほとんど正解だと思います。
先ずはじめにストレスは、心身共に人間の大敵です。心も体も蝕んできます。実際僕の膵臓(すいぞう)も、始めはストレスでやられたわけです。(だから居酒屋の経営者なのに、お酒が1ミリも飲めないのです!笑)
細胞だって酸化していきます。それによって老化が進みます。ストレスを抱えて生活することが、いかに悪影響であるのか。調べていただくと分かると思います。
僕は昨年闘病中に、今後の人生を考えました。ストレスフリーになるために、珍しくそこそこの勉強もしました。もうあんな病原体と生活するのはマジ卍なのです!
そこで導き出された答えは、全部で5つの項目に分かれます。それぞれについて書いてしまうと、多分本みたいになります。だから、今回は自分自身にとって一番課題だったことであり、現在絶賛実行中の項目の一つを紹介したいと思います。
「好きなことして生きているから」とか、よく言われることだと思います。間違ってはいないのですが、僕はそれではまだ弱く思います。実際、僕は教師の仕事がこの世で最も好きでやっていた。にも関わらずストレスを抱えて病気にまでなってしまった。。そこにはこの大切な要素が欠けていたからだと思います。
それは、人間関係です。
良好な人間関係を作ること。「作る」と言うと語弊がありますね。「悪い人間関係を作らない」と言った方が正しい気がします。それも、「反発をせずいい子ちゃんでいて、ゴマ擦りまくって可愛がられとく、要は出る杭にはならない。」そんなことではありません。それこそストレスで木っ端微塵です。
「合わない人とは深く付き合わない。」
これが必要だと思います。
僕は生まれつき正義感が強く、「自己犠牲」の精神を持ちがちです。まずそのような自分であることを理解する作業を行いました。だからこそ、自分がやると言ったことには、投げ出さず我慢してしまった。これはいまでも変わらないのですが、問題はその現場にいた嫌いな奴に対しても、我慢して正義感を持って対応してしまったからこそ、潰れてしまったんだと思います。ゴマも擦ったし色々我慢して、「良い関係を築いていないと、自分の仕事を全うできない。」と、そんな感じで過ごしていました。
「深く付き合わない」ことが器用に出来なかった。というか、初めから気に入らない相手、邪魔する相手(=自分から見ればアホである存在)を見極めて、そもそも鬱陶しいアホとは付き合いを始めなければよかった。
しかしアホは数多くいます。生活や仕事をしていると、アホには遭遇せざるを得ない。そこで我慢せず意見を通したり、反発するのは勇気がいります。ましてやアホが上司や年上なら、相当強い自分自身を保っていなければなりません。もちろんノミの心臓の僕は、ビビリなのでそれは不可能です。笑
そこで無理に強くなろうとか、勇気を持とうとかしない方がいいです。アホはどこまでもアホなんですから、いくら根性出しても勝てないです。また、アホをアホじゃなくそうとしても、アホなんで絶対に変わってくれません。中学生以下ならわかります。しかし義務教育を終えてまで、頑固にアホを通してる人は、もう諦めた方が早いです。家族でもないのに他人を変える、なんてそもそもできることではないのです。天性のアホの対応をするだけで、自分自身がおかしくなってきます。
はたまた先述したように、反発せずに我慢してまでうまく付き合っていくのもよくない。
だから、出来るだけ戦いの場に立たない。負ける(ここで言うストレスを溜める状況)と分かっている場には、そもそも行かない。付き合いをもっぱら諦めるのです。
そんな時必要な能力は1つです。「自分にとってのアホかどうかを見極める力」を持つことです。これには正しいも間違いもありません。だから誰にでもできるのです。簡単に言うと、好きか嫌いかで決めるだけ。
自分が「アホやな」と思う相手には、出来るだけ交わらずに通過して行くのです。そのためには素っ気なくもします。自分がアホぶる演技も惜しみません。すると、都合のいいことに、アホが「こいつほんまにアホやな」と思ってくれ、関わってくれないで済みます。笑 アホに何を思われたって僕は別に構わないのです。
っとこんなことを言ってると、「そのアホに嫌われたことで、損をすることもあるのでは?」って思う人もいるかもしれません。
そんな状況の時は、アホを上手いこと利用することで、その問題も解消できます。やや技術が必要ですが、演技でアホに媚び売っとけば(だいたいアホはおだててあげて、「あなたの味方です」って演技してれば勝手にテンション上がってくれますから)、
本当に欲しいメリットに対して貢献してくれることさえあります。
しかしそんなことをしなくても、自分にメリットを与えてくれるような、所謂自分にとっての優秀な人は、アホと自分とどっちがアホなのか、ちゃんと見極めてくれるので大丈夫です。もし自分がアホだとされて、色々デメリットを被ったとしても、他にいる自分と同じようなタイプの人は最終的に味方してくれます。
結局、人間は分かり合えない存在(自分にとってアホな人)は往々に存在しますから、数人のアホにわざわざ好いてもらおうなど全く思わなくていいのです。繰り返しになりますが、本当に優秀な人というのは、どちらが正しいかわかってくれます。沢山のアホを見て来ておられるので。
なので、アホとは深く関わらない!
では逆に良好な関係同士では、何をやっても楽しみが出てきます。その人と話をするのが楽しい。その人のためには身銭を切れる。お互いに貢献したいと思える。こんな関係性の中で生きれば、そこそこの辛さなど何ともないです。
僕が実践したのは以上です。
人間関係が生活に及ぼす影響は半端ではありません。アホといるとどんどん利用され、反論したら反発してきます。そんなことをしていると、ストレス値はどんどん上がり、僕みたいに病気になります。人間のストレスで最も高いのは人間関係の中にあるそうです。
逆に言えば人間関係さえ良好に保つことができれば、ストレスフリーに生きられる確率がかなり高まると言うわけです。
ストレスは人生の難敵ですから、それをまず排除さえすれば、それだけで少し明るく生きれます。その先に、自分のやりたい事とか、仕事に打ち込めば成果も変わるでしょう。
アホとどれだけ頑張ったって、その分寿命が削られます。仕事の成果が出る前に自分がストレスで死んでしまいます。
アホ数人との関わりを辞めたって、どのみち人生が終わるわけじゃない。アホと関わるぐらいなら、仕事手放してフリーになって、大好きな人たちを見つけて、一緒に何か始めた方がよっぽど良いと思います。多分僕はそうしているから、ストレスフリーなんだと思います。アンテナを張ってさえいれば、同じタイプの仲間というのは、どこかで引き合っているものです。アホとの共存だけは辞めた方がいいです。
③今日の名言
「実験は呼吸してるのと同じ」
(メディアアーティスト・落合陽一さん)
アホとの別居をクリアした後は、この段階に進まなければなりません。仕事を呼吸するようにできる。ワークライフバランスという言葉が近年流行してますが、落合さんはこう言っています。
「ワークアズバランス」
仕事と生活の境界を作らない。
④雑談
鉄板酒場振らんかぁー、皆様是非ご来店ください!笑
12. お店をオープンさせる人
嬉しいことに、頭の整理と鬱憤ばらしに書き始めたこのブログなんですが、割と反響を頂いています。見てくださってありがとうございます。教え子の皆様、お友達からもお言葉を頂戴し、それが学びに繋がります。一番嬉しかったのは、接点の少なかった方からも、LINEで個人的な意見を頂戴できたこと。ここのコメントに乗せていただいても全然結構でございますので、是非とも皆様意見を下さい!良くも悪くも全ての意見を嬉しく頂戴いたします.
今日は最後に告知があります!
なので、①、②、③のみでいきます!
①時事ニュース
【サッカー日本代表、ロッカーを清掃して帰る。】https://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20190202/901640.html
正直使ったロッカー掃除して帰るって,中学生でもやってることですね。気になったのは、なぜこんなことが大げさに記事になるのかということです。ここで僕が思うのは,掃除している側にも記事を書いている側にも、何も欠点はないということです。選手は当たり前のことをしただけで気付けば記事になっていた。記者は「世の中に受ける」と思って書いた。僕はこれが「受ける」と思われている、即ち選手が掃除することに感銘を受けている、要は、「掃除は誰かにやらしといたらええ」と多くの人が考えてしまう、ちょっと横柄な世の中に疑問です。
②今日のめーげん
多分現在、日本一有名な著書編集者、箕輪厚介さんの言葉です。
「こっちの世界に来て革命を起こそう」
(幻冬社 箕輪厚介)
彼は有名な方が書いた本を出版し、世の中に売り出すのが仕事なわけですが、彼が手がけた多くの書籍は、次々とバカ売れしています。
上の言葉はそんな箕輪さんが、初めて書いたご自身の著書『死ぬこと以外かすり傷』でも登場する一言です。(題名にインパクトありすぎですね。笑)
「こっちの世界」とは、既存の社会体制に疑問を抱き、新しい人生のあり方を模索する人々のことです。高度成長期がはるか昔に終わってもなお、日本社会は大きな変貌を遂げないままでここまで来ました。なので、今の若年層には合わない社会体質であったり、物事の考え方というのが、世界トップとは言えない現状です。これは僕自身海外の人と会話していても肌で感じます。
彼は「今までの常識を疑い、新たに来る新しい未来を歩み抜くために思考を変えよう」と、出版を通じて訴えかけます。つまり、こっちの世界とは、思考をいかに変えるかで、誰でもいける場所なのです。要は常識を疑い、破壊しようと。
僕も教師を辞めた時は悩みこんでしまい、本に頼るしかありませんでした。(なんせちっさい脳みそなので一人で考えてもらちがあきません。。笑)
様々な書籍を読み漁りましたが、彼が手がける書籍から受けた影響は中でも非常に大きかったです。その中の1つが、『死ぬこと以外かすり傷』でした。
心の持ちようで人の人生は大きく分かれることがわかります。弊ブログの第11回11. 批判的な人(高校のプチ同窓会にて) - 放課後の純喫茶でも出てきますが、僕は2018年を境に、大きく人生を転換させました。結果、「常識的ではない」と言われることも数多くありますし、これからもあることだと思います。
しかし、一度「死」を意識してからは、「かすり傷」とまでは思えなくても、「もーなんでもやってやれ」精神で、新たな道を模索しています。徐々に事業化できるようにもなってきました!
教師時代には抱けなかった新しい夢も見つかりました。その実現に向け、これからも精進したいと思います。
③雑談
②の話の延長ですが、密かにちっちゃいお店を作っておりまして、実はもうすぐオープンします〜!笑
そらブログ更新も遅れるわけですわ!
お時間ある方、お越しください〜!!
びっくりするほどちっちゃい店ですが。笑
味は完璧に間違いなしです!!!