放課後の純喫茶

学校で話し足りなかったあれこれ。

18. 不幸せな人とそうでない人

まさか数ヶ月書かない日が来るとは、、、まあ初めから勘付いていましたが!笑

 

新しく始めた事業が僕にとっては量が多くてただただ疲れてた、それだけのことでサボってました。束の間の休日、一気に書きます。。

多分また書くのサボると思います。

 

 

一方で学びも多い時間でした。

事業を通して個人のお客様が増え、人間観察する機会が増えました。

 

と言っても大層なものでなく、僕ら業者側と話をする際の対応であったり、顔つきであったり、そんなものを観察しては、「この人は多分、ああだこうだ」と、密かに考えているだけです。

 

仕事中は無の境地なので、一切その感情は見せずに、ただ淡々と笑顔を振りまいて、せめて何もトラブルのないよう帰宅するのが第一目標なのですが。

 

そんな生活を通して僕が習慣付いてしまっているのが、いわゆる高台の大きな家に住み、駐車場に高級車を並べて、見るからにお金持ちそうな人と、そうでない人との生活スタイルと、心の幸福についての憶測。

 

様々な家庭に土足で踏み入り、お客さんと会話する中で、前者があくまで幸せの定義に当てはまるわけではないと言うことが見て取れてしまうと言うわけです。

 

さて、世間一般の考え方では、そりゃお金を多く持ちながら、高級なもので身を武装して、周囲に大きな態度を取れる、そんなステータスをお持ちの方が大いに幸せだと考えるそうです。

 

僕らみたいな業者相手となれば、「お金を払っているんだから」と、それはもうすごい傲慢な態度で攻めかかってくるのです。

 

仕事中の僕の心はいつでも無の境地にいるので、まるで執事にでもなったかのように淡々と笑顔で対応するわけですが、あれをプライベートでされると、多分顔面に唾吐いてボコボコです。

なぜならこっちも人間なのだから。

 

一方でそんなステータス的な物質を手にしていなさそうな家庭でも、「ありがとう」が口癖の人がいます。そういう人は夫婦間でも、子供に対してもいつもニコニコです。

 

思いあい、笑い合い、協力しあって生活している様子が伺えます。

 

何が言いたいのかというと、ほとんどの人が「幸せの定義」みたいなものを、勘違いしているか、見失っている。

 

お金と車と大きな自宅は、幸せのそれには当てはまらないのです。

 

むしろ、定義を無視して生きてきたであろう、もしくは本当の幸せに触れた回数が少ないのではないかって、そんなふうに思ってやみません。

 

どうしてこんなことが言えるかというと、以前どこかの記事にも書いたと思いますが、幸せな人と不幸せな人が行う行動パターンが面白いぐらい見て取れるからです。

 

簡単にだけ説明すると、前者は抱えきれない幸せを、他者に分けようとするのです。(するかのように行動しています。)彼らの口癖は、「ありがとう。」そして、自然と笑顔に溢れ、

僕らもそれを見ているうちに、多くのお金は払ってもらえないかもしれないけれど、帰り道はついこちらの気分までとてもハッピーになるのです。(幸せのお裾分けと呼んでます。)

 

後者は幸せを奪おうとします。その方法はいたって簡単で、目の前にいる他者を打ち負かせばいいのです。つまり、幸せを奪うというよりも、他者を不幸せな感情にしておいて、自分が優っていると感じたい。だから、罵声を浴びせたり、いちゃもんをつけたり、要は文句ばっかりの人ですね。

 

もちろん大きな家で高級車を並べる一定の民族が、全員そうとは限りません。

本当に素晴らしい人格の人もいます。

 

しかし、そうでない人もいる。その割合は高いかもしれません。偏見なのかもしれませんが、いわゆる「高級住宅地」と呼ばれ、ここに住むのが一定のステータス、だとアホな勘違いしてそうな人たちに、不幸せ人間は多く見られます。

 

では、幸せな人とそうでない人は、何が違うからそうなってしまうのか。

幸せの定義とは何ぞやとなりますが、

 

先ほども書いたようなこと、これが真髄だと感じてなりません。

 

それは、「人間関係」です。

家族、友人、恋人、職場、あらゆる人間関係が良好なほど、幸せそうです。

 

大きな家に住み高級車に乗って、巨大な庭をお持ちの男爵も、奥様にとても偉そうな言い方で、僕ら業者はまるでゴミ以下の扱い、そんな人が幸せそうとはとても見ることができません。もしかしたら本人はそれで幸せな気分なのかもしれませんが、

ここが重要なポイントで、真の幸せを知らないのだから、そうなって致し方ないということです。

 

ただ人を従えているのではなく、心が自然と通い合い、互いに思いやることが率先してできて、同じ空気を同じ空気感で過ごし、他者と共通した感情で生きる。もし軽自動車の中でこれが作れたら、ギスギスしたベントレーよりも、乗りたいのはどっちか?ということです。

 

何度も言いますが、人間観察が癖付くレベルになってしまうと、人の幸不幸の様子が面白いぐらいわかります。

ふとした言動、行動、家の中、そこに漂う空気感ですら、それらを察知することができます。

 

不幸な人間になにかをされると、報復したくなるのが人間です。その報復が怖いから、さらに押しつぶそうとし合います。

 

人間関係が幸せの定義の第一段階にあるにもかかわらず、一定人数の人々は、このように定義から外れていくのです。

 

僕は教師時代に比べ、お金は不安定になったし、そのくせ仕事は忙しくなって、体力も使って毎日夏バテですが、それでも、今の方が幸せだと断言することができます。

 

仕事内容は今より教師時代の方が、夢だったし楽しかったけれど。

今は毎日のように仲間に囲まれて、大変な作業を協力しあって、完成したら喜び合って。そんな環境にいることが、まず幸せに感じます。

 

職種やお金の量より先に、良好な人間関係が、人の幸福には必要なのです。

 

元々群集動物の人間です。他者とギスギスしあって、自らのパートナーや隣人、家族にすら文句しか言わず、協調性がなく、自分のことばかり考えている人は、回り回って幸せを逃してます。根本的に本能から逸れてます。

 

これは言い方を変えると、自分の人生に真剣に生きているとは言えないと僕は思います。

人生を充分に満喫したいなら、他者との関係は必要不可欠です。人の心は寂しさを嫌います。敵ばかり作っては生きていけないのです。

 

恋人関係、友情関係でも、わがままばかりはまかり通りません。いつか、人は離れてしまうのです。

 

そんなことに気づいた時点で、僕の生き方は様変わりしました。

教師という職は好きだったけれど、ギスギスした人間関係の中で生きるのは不幸に満ち溢れていました。

 

そこから、人間関係の大切さに気づき、思いやりを持った人と接して、そうでない人とは交わらない、そんな生き方を選択しました。要は、自分が気持ちよくなれる環境にしか身を置かない。自分がそうなることで初めて、自分も他者へ思いやれるのです。そうなれるもの同士の中で、今はとても幸福感を得ています。

 

言い方を変えると、これはとてもわがままな生き方かもしれません。最後の「自分のことばかり」の人間より僕の方が多分わがままに生きています。

 

しかし、そんな心持ちのおかげで、僕の中では教師時代と比べて幸せの定義が徐々にクリアされつつあります。

 

人間関係(群居欲)の次は、食欲、睡眠欲などの生存欲と、性欲と愛。そこから、社会貢献欲、自己実現欲です。

 

今はまだ3つ目までを満たすのが精一杯という感じなのですが、自分自身が幸せになるために、徐々に後者も揃えたいとこですね。まずは4つ目、5つ目を完璧な形でコンプリートしたいところです。笑

これからもぎゃんばろー

f:id:hitomaru01:20190811162318j:image